【孤独であるということ】
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Arum
「雲ひとつ無い晴天とはこのことか」
空を見上げて、思わずそんな言葉が漏れた。
澄み渡る青に吹き抜ける風が心地よい。秋だ。
晴れ晴れと美しいのに、同時になぜだか切ない気持ちが湧き上がる。
これも実に秋らしい。
以下、秋から一頻り連想したことを共有させていただく。相変わらずまとまりが無く長ったらしいが、お付き合いいただきたい。
***
中国、明の李攀龍(りはんりょう)が1514〜1570年に編纂した※といわれる唐詩選に、このような詩がある。
[※諸説あり。町の本屋が李攀龍の名を勝手に利用して作った偽書とも。]
秋日 / 耿湋(こうい・中唐)
返照入閭巷
憂来誰共語
古道少人行
秋風動禾黍
〈書き下し文〉
しゅうじつ
秋日
へんしょう りょこうにいる
返照閭巷に入る
うれいきたりて たれとともにか かたらん
憂い来たりて誰と共にか語らん
こどう ひとのゆくことまれに
古道人の行くこと少に
しゅうふう かしょをうごかす
秋風 禾黍を動かす
〈現代語訳〉
夕日の照り返しが冷たく村里に差しこんでいる。
この静かな光景に憂いがわき起こってきたが、共に語って心を慰める者もいない。
荒れた古い道は、通る人もほとんどなくて、
ただ秋風がさわさわと稲や黍(きび)を騒がせるばかりである。
***
赤い夕日の照り返しや、稲や黍の上をさわさわと吹いていく秋風が鮮明な印象を与えるこの歌は、ただ秋の物思いを歌ったのではない。
「古道」「禾黍(かしょ)」といった語によって、現実の世の荒廃が暗示され、同時にこの人物の憂愁の底にある過ぎし良き昔を懐かしむ心が表れてくる。
どうやら、何かの乱の後に詠まれたのだろう。
日本は今現在戦争こそないものの、やはり街や人の風景、そして自分の心の中すらも前とは違う。
当たり前ではなかったことが、当たり前の中に組み込まれていく。
もちろん"永遠に同じ"ということなどあり得ないのだが…常に変化のうねりの中にいるという事を、人は忘れるものだ。
今年ほど、"もう戻らない昔"を多くの人が意識した年はそうないだろう。その中で、孤独を感じる人も。
孤独というものはネガティブに捉えられがちだが、同時に人の支えになりうるものでもあると私は思う。
それは自分自身との対話にとどまらず、自分の周りを取り囲む空間と、自分の中にある空間を感じること。
何かを持っている事は素敵だが、持っていないという事も豊かなことだ。
時代も国も、そして生活状況すらも違う人物によって詠まれた唐詩が、そんなことを私に思い起こさせる。
孤独であるという事は、変化を味わう事でもある。
変わるもの、変わらないもの。
時の螺旋の中で、その愉しみを見つけられたのならば、それは贅沢なことではなかろうか。
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