【オリジナル怪談】

本日21:00~

bell

【オリジナル怪談】

その旅館の名前を、私は今でも覚えている。
海釣りに行こうと、私たち六人が予約した旅館だった。
海のすぐ近くにあるはずなのに、宿へ向かう道は山の中を延々と登っていった。
「海釣りなのに、なんでこんな山奥なんだよ」
車を運転していた健一が笑った。
「昔は海岸沿いだったんじゃない?」
誰かがそう答えた。
だが、後から考えると、その時点ですでにおかしかった。
カーナビに表示されていた旅館への道は、途中から何度も同じ場所を通っていたからだ。
それでも私たちは気にしなかった。
旅行というのは、多少道に迷ったほうが楽しい。
そう思っていた。
旅館に到着したのは、夕方だった。
玄関に立っていたのは、一人の女性だった。
古風なロングスカートを履いていて、髪を後ろでまとめている。
顔立ちは整っていたが、笑顔が妙に印象に残った。
上品なのに、どこか妖艶。
そして、言葉の一つ一つに不思議な艶があった。
「お待ちしておりました」
女性が言った。
「六名様ですね。二部屋をご用意しております」
案内された部屋は隣同士だった。
私たちは三人ずつに分かれた。
私、健一、由美が「松」。
残りの三人が「竹」。
どちらも古い和室で、窓からは山の斜面しか見えなかった。
海の音は聞こえなかった。
そのことに気づいたのは、夕食が終わってからだった。
---
夕食には、なぜか大量の料理が並んだ。
牡蠣三昧という札が立った皿まである。
食事が終わった後、健一が売店から買ってきたうまい棒とチョコボールを開けた。
「これ、一緒に食ったらうまいんじゃね?」
冗談半分に、うまい棒をかじってからチョコボールを一緒に口へ入れる。
「……普通にうまいな」
「子どもみたい」
由美が笑った。
その後も、くだらない話が続いた。
競馬。
ゴルフ。
昔買ったレースの下着。
健康の話になって、誰かが脂肪冷却の広告を見たことがあると言った。
健一は昔のデートについて話した。
「そういえば昔、新宿でピザとアヒージョを食べたことがある」
「へえ、デート?」
「そう。帰り際に相手が『私の初めてをあげる』なんて言ってきて、びっくりした」
全員が笑った。
そこからなぜか、海で着る水着や、脇の汗対策、昔見た変な広告の話にまで広がった。
誰かが、
「昔、妙におしりの大きい子がいてさ」
と言ったところで、私は笑いながら話を遮った。
「もういいって」
そんな、どこにでもある旅行の夜だった。
ただ一つだけ変だったのは、壁の向こうから聞こえていた音だった。
隣の「竹」の部屋から、
コン。
コン。
コン。
と、一定の間隔で壁を叩く音がしていた。
「何やってんだ、あいつら」
健一が壁を叩き返した。
コン、コン。
すると向こうからも、
コン、コン。
返事が来た。
私たちは笑った。
そのときは、それだけだった。
---
夜中の二時半。
私は喉が渇いて目を覚ました。
部屋は真っ暗だった。
健一と由美は眠っている。
私は布団から出て、水を取りに行こうとした。
そのときだった。
押し入れの襖が、少し開いていた。
昼間は閉まっていたはずだ。
気になった私は、襖を開けた。
布団が積まれている。
その上に、古い天井板が見える。
私は何気なく上を見た。
そして――
息が止まった。
天井板の隙間から、人間の顔が覗いていた。
逆さまだった。
長い髪が垂れ下がっている。
顔は白い。
目は閉じている。
最初は知らない人だと思った。
しかし窓の外が一瞬だけ明るくなった。
その顔が見えた。
私は知っていた。
「竹」の部屋で寝ているはずの健一の顔だった。
逆さまになって、押し入れの天井から私を覗いている。
「……健一?」
声が出た。
逆さまの顔は動かなかった。
私は一歩下がった。
すると、その顔の目が開いた。
真っ黒だった。
瞳がない。
ただの黒い穴が二つある。
そして、口だけがゆっくり開いた。
「……こっち」
私は悲鳴を上げた。
その声で健一と由美が飛び起きた。
「どうした!」
「押し入れ!」
二人が押し入れを見る。
何もない。
天井も普通だった。
「誰かいたんだ!」
「落ち着けよ」
健一が言った。
私は震えながら説明した。
すると健一が黙った。
「……俺も見た」
「え?」
「今夜、向こうの部屋で寝てたらさ」
健一は押し入れを見た。
「天井から、お前の顔が覗いてた」
---
翌朝。
六人で話し合った。
全員が顔色を失っていた。
「お互いの部屋から、相手の顔を見た?」
由美が確認する。
全員が頷いた。
ただ、健一だけは妙に青ざめていた。
「俺、朝は低血圧だから、寝ぼけて見間違えた可能性もあると思ったんだけど……」
「低血圧って問題じゃないだろ」
私は笑おうとした。
しかし、健一は笑わなかった。
「いや。あれは寝ぼけてない」
つまり、
「松」の押し入れの天井からは「竹」の誰かが。
「竹」の押し入れの天井からは「松」の誰かが。
逆さまになって覗いていた。
しかも六人全員が、別々のタイミングで同じ現象を見ていた。
「こんなの、旅館の人に聞くしかないだろ」
健一が言った。
---
受付にいた女性は、私たちの話を聞いても驚かなかった。
「……やはり見ましたか」
「やはり?」
女性は静かに頷いた。
「この辺りでは昔から、そういうことが起こるのです」
「何なんですか?」
「認知の歪みですよ」
女性は微笑んだ。
「人は自分が見たいものを見ます」
「でも、全員が見たんですよ」
「だから問題なのです」
女性の声が少し低くなった。
「この山では、現実のほうが人間の認識に合わせて変わりますから」
誰も意味が分からなかった。
女性は続けた。
「昔、この山にはオレンジ農家の集落がありました。そこには変わった風習があって……」
そこで女性は言葉を止めた。
「それ以上は、お帰りになってから考えてください」
そして、私たちに古い地図を渡した。
地図には、旅館の裏山に「ラジオ館」と書かれていた。
---
私たちは帰る前に、その場所を見ておくことにした。
旅館の裏手には細い山道があった。
しばらく進むと、小さな建物が現れた。
看板には、
ラジオ館
と書いてある。
建物の壁には、古い写真が何枚も貼られていた。
その中の一枚に、山伏のような格好をした老人たちが写っている。
全員が黒い帯を締めていた。
「黒帯……?」
健一が写真を覗き込む。
写真の下には、
『山の修行者たち』
とだけ書かれていた。
しかし、その写真には奇妙な点があった。
老人たちは全員こちらを向いているのに、一人だけ顔が完全に逆さまだった。
「昔の写真なんだから、変な加工でもしたんじゃない?」
由美が言った。
私は返事をしなかった。
写真の老人が、今こちらを見ているような気がしたからだ。
建物の中には古いラジオが何台も並んでいた。
どれも電源コードが抜かれている。
なのに、一台だけ音が鳴っていた。
『……本日の放送です』
ザーッ。
『昭和のアニメ特集』
次に、
『ピカソ特集』
さらに、
『競馬、ゴルフ、健康情報』
と、意味の分からない番組が続いた。
突然、
『本日の修行について』
という声がした。
誰かが笑った。
「修行って何だよ」
ラジオが答えた。
『全国チェーンのコーヒーショップを巡ることです』
全員が黙った。
別のラジオが鳴った。
『トロピカルパンチ』
棚を見ると、真っ赤なスープの袋麺が並んでいる。
さらに、
『緑茶レモン』
『金時甘納豆』
『おむつ』
『50%OFF』
と、商品の名前が次々と読み上げられた。
壁には意味不明なポスター。
もじもじ子と書かれたものまであった。
「何これ?」
「人見知りのことじゃない?」
由美が答えた。
そのとき。
屋根の上から、
バサッ。
と大きな羽音がした。
外を見る。
一羽のミミズクが飛んでいった。
その足元に、小さな札が結びつけられている。
札には、
『猫のキキ』
と書かれていた。
「……猫?」
由美が呟く。
「いや、あれはミミズクだろ」
健一が答えた。
「この辺では、ミミズクのことを空飛ぶ猫って呼ぶらしい」
私は屋根を見上げた。
ミミズクはもう見えない。
だが、どこか遠くから、
「ニャー……」
という、猫のような声が聞こえた。
その瞬間、ラジオの音が止まった。
館の奥から、女性の声がした。
「猫のキキが帰ってきました」
誰も動かなかった。
女性は続けた。
「今夜は、部屋を間違えないようにしてくださいね」
その声を聞いた瞬間、私は昨夜の押し入れを思い出した。
天井から覗いていた、逆さまの顔。
あれは単なる幻ではなかった。
この場所では、部屋と部屋の境界そのものが壊れている。
そう思った。
---
帰ろうとした。
ところが、山道が見つからない。
来た道を戻っているはずなのに、何度歩いてもラジオ館の前に出る。
「おかしい」
空が暗くなった。
遠くで雷が鳴る。
次の瞬間、猛烈な雨が降り始めた。
激しい雷雨だった。
山全体が白くなるほど稲妻が走り、轟音が木々を揺らす。
私たちはラジオ館へ逃げ込んだ。
雷鳴が止まない。
その中で、ラジオだけが静かに鳴っていた。
『お帰りなさい』
女性の声だった。
『お帰りなさい』
また聞こえる。
『あなたたちは、もう戻れません』
その瞬間、館の壁が消えた。
向こう側に見えたのは、海だった。
しかし、その海は空の上にあった。
山が逆さまになって浮いている。
海が空を覆っている。
そして、その世界の中央に旅館が立っていた。
私たちは、いつの間にか異世界へ迷い込んでいた。
---
旅館へ戻ると、女性が玄関に立っていた。
ロングスカート。
妖艶な笑顔。
「お帰りなさい」
その背後には、無数のミミズク。
空飛ぶ猫たちが屋根に並んでいる。
「あなたたちは、部屋を間違えたのです」
女性が言った。
「どういう意味?」
「本当は、二部屋ではありません」
女性が指を差した。
廊下には、私たちが泊まった二つの部屋がある。
しかし、その間にもう一つ扉があった。
見覚えのない部屋。
「ここが、本当の部屋です」
扉を開ける。
中には押し入れがあった。
襖を開ける。
天井に穴がある。
そして――
その穴から六人の顔が覗いていた。
全員、逆さま。
全員、目を閉じている。
「これは何なんだ!」
私が叫ぶ。
女性は答えた。
「あなたたちです」
「……え?」
「今、そこにいるあなたたちは、この世界に来る前のあなたたち」
私は意味が分からなかった。
女性は静かに笑った。
「ここへ来た人間は、二つに分かれます」
「一方は帰る」
「もう一方は、押し入れの天井から覗く側になる」
その瞬間、逆さまの六人が一斉に目を開いた。
そして、
全員が笑った。
---
私たちは走った。
どこへ向かったのか分からない。
ただ、旅館の外へ出た。
気づくと、海岸だった。
朝日が昇っている。
車もある。
釣り道具もある。
そして、旅館は跡形もなく消えていた。
私たちは無言で車に乗り込んだ。
誰もあの夜の話をしなかった。
しばらくして、由美がスマートフォンを見て言った。
「……写真がある」
昨夜撮った覚えのない写真だった。
旅館の部屋を撮影した写真。
二つの部屋が写っている。
そして、それぞれの押し入れの天井から、顔が覗いている。
「松」には「竹」の三人。
「竹」には「松」の三人。
さらに写真を拡大すると、天井の奥にもう一つ顔があった。
知らない女性の顔。
ロングスカートの女性。
彼女だけが、カメラを見て微笑んでいる。
写真を閉じようとした瞬間、スマートフォンから声がした。
「次は、どちらの部屋に泊まりますか?」
全員が凍りついた。
そして車のルームミラーを見る。
後部座席には誰もいない。
なのに、ミラーの中だけには――
押し入れの天井から逆さまに覗く、六人の顔が映っていた。
その中の一人が、ゆっくり口を開いた。
「また海釣りに行こう」
その声は、私自身の声だった。
以来、私たちは二度と六人で集まっていない。
ただ、一つだけ妙なことがある。
毎年、海釣りの季節になると、私の家の押し入れから音がする。
コン。
コン。
コン。
最初はネズミだと思っていた。
だが去年、思い切って押し入れを開けた。
何もない。
布団しかない。
安心して襖を閉めようとした、その瞬間。
押し入れの天井から、
私の顔が逆さまに覗いていた。
目を閉じたまま、笑っていた。
そして、天井の向こうから、
「お帰り」
という声がした。

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